そろそろ定年と年金についても語ります

 

 

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2013年最後の同潤会アパートが取り壊されました。このページに載せた写真は、2008年7月19日に撮ったものです。

bind_08.jpg南側入口。西の方の入口です。住んでいる人の名前が上に掲示され、黒っぽくなっているところは階段です。 

bind_86.jpg上野下アパートの表札
「上野下アパート」所在地は「台東区東上野5腸目4版3号」となっています。普通の木の板に白い塗料を塗りそのうえにアパートの名前と所在地を書いたそっけないものです。
 
bind_21.jpg上野下アパート別当 

エレガンス・ハイセンスそれでいて庶民派

同潤会アパートは、

16棟あり、14棟は東京都内に、残り2棟は横浜にたてられました。”Wikipedia”を見ると、横浜の2棟は1980年代に解体されてしまったのに対し、都内のものは、1982年に三田アパートが解体されてから、2013年最後に残った上野下アパートが解体されるまで30年ちょっとの間残すべきか解体し、より便利な建物にするか、議論が続いていたと言っていいと思います。

生活するのに便利かどうかとか歴史的価値がすごいとか地震に対して安全かどうかといった実利的なことや建築の面からの説明は抜きにして、同潤会の建物の特別な存在感は今でも私の頭の中に残っています。私は、すべての同潤会建築を見てきたわけではありませんし、記憶の中のイメージが正しいのかどうかも定かではありませんが、表参道に立つエレガントな貴婦人、大塚の高台に建つ少々年は言っているけど洒落たバーでマティーニをご一緒にと持ち掛けたいOL、浅草と上野の間で細々と暮らす人たちに元気よく挨拶するおばぁちゃん。

大震災からの復興という一つの目的をもってたてられた建築群とはいえ、同潤会の建物は一つ一つが確かな主張を持ち、初めて目にしたとき、一目で恋に落ちる、そんな感じのある建物群でした。

江戸川アパートメント

確かな記憶ではないのですが、昔、首都高の5号線を走っていた時、ほとんど朽ち果てそうな建物が見え、白い洗濯物が風になびいているのが印象的で、「いつか、この建物へ行ってみたい」という気持ちをいつも持っていました。結局、江戸川アパートメントには行く機会がなく、私の記憶には、風になびく白い洗濯物が江戸川の同潤会アパートでしかありません。浅田次郎の小説「終わらざる夏」の主人公が済んだのがここでした。

大塚女子アパートメント

それよりも、もっとあいまいな記憶は大塚女子アパートメントです。
ほとんど、壊れかけた建物に補修のためというよりたぶん解体を前にしてでしょう網がかけられ、通り過ぎる車からも見向きもされず、寂しげに佇んでいたのを覚えています。

今思うと、一番見ておきたかった同潤会建築だったかもしれません。

青山アパートメント

青山アパートメントは、欅並木の中に佇むちょっと年のいった貴婦人でした。貴婦人と言っても生まれは平民、努力して知性とエレガンスを身に着け、仕事も順調、交際も派手、心の奥に深い孤独を抱え、紅葉する欅からの木洩れ日にわずかな安らぎを感じる、そんなタイプの建物でした。私は彼女に会えるのがうれしくてよく足を運びました。彼女は、いうまでもなく美女でした。そこにいるだけで心がときめき、一緒にいられる時は見つめ合い、今、何に関心があるのかいつも気にかけていました。

同潤会アパートメントの中で、私が実際に入ったことがあるのは、ここだけです。
場所が場所だけに、解体される前の建物の一部は、なにかお店が入っていたと記憶しています。蔦のからまるエレガントが外観とは違って、天井はひくく室内は、結構がたが来てるなと感じられる状態でした。また、オシャレな街には、まるで似合わないおばぁちゃんが中庭をうろうろ歩いていて、水道だか井戸だか定かではないのですが水を汲んでいたのも記憶しています。

いろいろな資料では、ここはできた当時は超高級アパートだったと書かれています。でも、私の記憶では、上に書いたような風景も残っていますので、貴婦人でも出身は庶民。美人で近づきがたい雰囲気はあるけど、実際に会って話すと案外話が通じて、しかも包容力のある女将っていった雰囲気で好きな建物でした。

再開発後の表参道ヒルズを設計した安藤忠雄さんも、たぶん、青山アパートメントが好きだったのでしょう。建物の一部に、かってのアパートを再現した部屋があります。ただし、昔の本物は、もっとボロだった。

 

鶯谷アパート

ここも、記憶の奥にかすかに残っているだけです。現在は、超高層の建物がありかってのボロ建物の面影などまるでありません。

この建物の向い、尾久橋通りを挟んだ反対側に鶯谷診療センターという施設があります。かって都内の会社に勤めていた私は、毎年、冬、ここで健康診断を受けていました。ちょうど、1995年1月17日、たまたま、健康診断でここにきていました。

朝食を摂らずにボォッとした頭で待合室のテレビを見ると、炎を上げる町や崩れた高速道路を映している。

阪神大震災でした。

鶯谷診療センターで会計を済ませるところの窓の丁度正面に、「鶯谷アパートメント」という文字が見え、冬枯れの木々が建物の間に寒そうに立っていたのを記憶しています。文字は、「鶯谷アパート」だったかもしれません。

この看板の文字、確か結構チャチな作りで、それでいて、黙って下町の人々の生活を守ってきたという誇りが感じられ、いつか、訪れ、その誇りを共有し、写真に残したいと常々思っていました。健康診断の帰りにでも立ち寄ればよかったのですが、なにせ、胃の診断でバリウムを飲む。下剤の効果抜群の私は、家に帰ることのみ脳裏に浮かび、他に立ち寄る余裕などとてももてませんでした。

その後、私は都外に勤務し、しばらく鶯谷での健康診断から離れていました。
何年かたち、たかが健康診断とはいえ、自分の好きなところで受けたいと思い、鶯谷での検診を申込み、久しぶりに鶯谷アパートに会えるなと思って出かけたところ、建て替えの後。失望でしばらく唖然とし、何度も構想ビルを見直しましたが、勝手のアパートがよみがえるわけもありません。

でも、記憶というのは、しつこいもので、今年も鶯谷検診センターで人間ドックに入りましたが、入るとき、そして出るとき、実際に目に見える高層ビルではなく、私の眼には、かっての冬枯れの木々に囲まれた同潤会の鶯谷アパートメントしか入りませんでした。

 

上野下アパートメント

上野下アパートメントのかなりくたびれた外観を見たのは、ここで掲載した写真を撮った2008年の夏でした。結局ここが最後まで残った同潤会アパートメントとなったのですが、ここの前に解体されたのが、三ノ輪アパートメントで、新聞だかで解体のニュースが出たとき見に行こうと思いつつ結局三ノ輪は見ることなく解体されてしまいました。

この写真を撮った時も、上野から浅草まで歩こうと思いつき、ぶらぶら歩いていたら偶然出会った次第でした。でも出会ったときの衝撃というか建物の独特の存在感というのは格別でした。青山アパートメントのエレガンスとは違うのですが、庶民の生活を守ってきた誇りが感じられ、同時にヒビの入った外壁を見ると、そろそろお役御免にしてよ、と言っているような感じもしました。

同潤会の建物というのは、結構若い人、10代後半くらいから上の人でも、東京に暮らしていた人なら、案外身近にあったものだと思います。独特の存在感は感じられたのですが、街に普通にあった建物でした。私などのように、建築に詳しくない人間は、その建物群が、関東大震災の教訓をもとに当時最先端の建物だったなんてあまり知りませんでした。実際の話、解体を知らせる新聞記事で、その存在意義を知ったと言ってもいい。

それにしても、たてられてから84年で解体。うっかりすると、人間より短命。ヨーロッパの街には数世紀を経て現役というのがあるのに比べると、どうにかならなかったのかなと頻りに思えます。

2014年10月

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外壁 

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